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藤の屋文具店

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水中列車



              水中列車


僕は汽車に乗っている。乗客はまばらだ、ごとんごとんと列車は
走る。車内灯は暗い、オイルの染み込んだ木製の床が、暗さを増幅
している。対座式の、座面のはげちょろになった紺色のビロードの
座席は、尻の下が熱い。時折、スチーム暖房の、ため息のような音
が聞こえる。しんちゅう製の、使い込んでずるんと光ったレバーを
両手でつまみ、僕は窓を少し持ち上げた。夜風は予想以上に冷たく
、すぐにまた閉める。
目の前に青年が一人、文庫本を読んでいる。カバーはむしり取っ
てあるので、ベージュとピンクの中間のような表紙に海老茶色のラ
インが見える。しおりの紐がたらりと下がっている。年の頃は、2
5、6といったところか、どこにでもいそうな気の良さそうな青年
だ。ジーンズの脚を横にずらし、ニスの剥げた肘掛けに身体を預け
て読んでいる。
時々、2枚まとめてめくれてしまったページを両手で戻す。ごと
んごとん、ぴぃ~~、ふしゅっふしゅ~っ、ひゅるひゅる・・・・

いつしか列車は海の中を走っている。列車の明かりが海底に窓の
影を映す。移動する四角いスポットランプの舞台の中に、海草や石
ころが照らされて流れる。著しくバランスを欠いた形態の魚達が、
不意の侵入者に驚いて逃げまどう。
不思議な事に、水は車内に入ってこない。駅が近づいてきたのか
、離れた席の人が荷物を持って通路のドアを開ける。青年は、相変
わらず本を読んでいる。
ぴぃ~~という汽笛が聞こえる。すこし離れた処を、もう一台の
列車が併走している。通勤電車のようだ。しかし、ここは海の底で
ある。暗い海底が、併走する電車の窓明かりに照らされる。電車は
少しずつこちらに近づいてくる。3メートル程の距離を、同じ方向
に走っている。吊革につかまったサラリーマンが、新聞を読んでい
る。背を向けて座っている人たちは頭がゆらゆらと揺れている。何
の変哲もない夜中の通勤電車だ。
ただ・・・立っている人の胸のあたりまで水が溜まっている。座
っている人たちは、みな水の中にいるのだ。僕は、その光景を少し
も不思議に思わずに、ぼんやりと眺めている。やがて電車は、少し
ずつ方向を変え、海底の闇の中へと消えて行った。

ごとん! と列車は止まる。がらがらとドアの開く音が聞こえる
、窓の外は漆黒の闇である。水は入ってこない。やがて通路のドア
が開いて、何人かの老人達がひっそりと入ってくる。老人達は黒っ
ぽい服を着て、頭になにかかぶっている。あちこちの座席に散らば
って座った、がさがさと衣擦れの音が響く。
がたん!というショックとともに、列車はふたたび動きだした。
心地よい振動が僕を眠りへと誘う。
ぴぃい~~ !
汽笛の音で目が醒めた。眠い目をこすりながら窓の外を眺める。
いつのまにか列車は地上を走っている、薄紫色の雲があたりを包ん
でいる。斜め前のボックスの彼女達は、もう目を覚ましている。
検札が入ってきた、何故か何人もいる。ひやりとした嫌な空気が
流れる。僕は警戒して彼女の処へ行く、向かいの席の彼も僕になら
う。不気味な検札は近づいてくる。
僕は、彼女の手を取って隣の車両に移動する。
ごとん! ぎぎぎ~~~っ!
汽車は終着駅のホームに滑り込む。僕たちは、お互いの彼女の手
を握りしめて改札口を目指す。走ると怪しまれる。はやる心を抑え
て、さりげなく早足で歩く。
彼らは少し足が遅い。気になるけれども、振り向かずに歩く。鉄
パイプの檻のような改札口で切符を渡す。彼女の切符はすんなりと
受け取ったのに、僕の切符は受け取らない、この先の改札で手渡せ
と言う。不安がこみ上げてくる。僕は彼女の手をぎゅっと握りしめ
て、次の改札口をめざす。何があっても離しはしない、彼女を置い
て行けと言われたら闘う覚悟だ。
だがしかし、次の改札口もあっけなく通り過ぎた。駅の外の広場
に出た。夜明けの街にはミルク色の霧が立ちこめている。もう一組
のカップルの事が気になって、僕は後ろを振り返った。

そこには何も無かった。

古びた煉瓦造りの駅舎も、左右に続くペンキの剥げた白い木製の
柵も、向かって右手にある木造の便所も、大きな樫の木も、なんに
も無かった。ミルク色の霧の向こうに、果てしなく荒れた大地が広
がっているだけだった。あの青年はおろか、後に続いてくるはずの
乗客も、誰もいなかった。
不安に駆られて街を振り返ると、街はちゃんとあった。しかし、
さっきまでいた筈の人々は誰もいない。孤独感に気が狂いそうにな
りながら、握った手に力を込める。
よかった、彼女はちゃんといる。だが、彼女の名前を呼ぼうとし
て、僕は初めて気がついた。

僕は彼女の名前を知らない。

驚いて彼女の顔を見る。彼女の顔が・・・見えない。いや、確か
に目には映っているのだが、認識できない。顔が顔として認識でき
ないのだ。目に映るのは彼女の顔のはずなのに、色のついた絵のよ
うにしか認識できない。それが、誰なのかわからない。

僕は・・・僕は誰だ?

真珠色の街の中で、僕は途方に暮れて彼女の手を握り、いつまで
も立ち尽くしていた。ミルク色の霧が、僕の頭の中にまで、入って
きそうな気がする。

だれも・・・・・いない・・・。

{了}




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